アシッド・レイン
---- 第一章 (1)----

降水確率ゼロの日はその日で八十二日目を数え、全国のダムは完全に干上がっていた。

政府は、飲料水の緊急輸入を地方自治体に指示し、海水淡水化装置を全県に設置することを決定したが、すでに時期を逸していた。巷では、泥水でも飲めるようにできるというゲリラ戦用の薬品が自衛隊から流出し、雨乞いの祈祷師がはびこり、民間の気象情報機関が繁盛し、建設省は計画中のダム建設を一気に推進しようとし、農水省は農業用水の確保に奔走し、厚生省と通産省は降って湧いたこのチャンスに海水淡水化装置建設予算を緊急計上し、輸入果物の価格が高騰し、風呂屋が潰れ、工場が操業停止に追い込まれ、山火事が頻発していた。

一ドル百円を割り込んでいた円は急速に円安に流れ、社会的インフラの基礎の基礎である水と食料の確保すらままならない、国家とも呼べないお粗末な実体が露呈し始めていることに国民は嫌でも気づかされ始めていた。

梅雨の季節になっても晴天の日々が続き、大陸から太平洋に至るまで列島はスッポリと高気圧におおわれ、国土には一滴の雨ももたらされることはなかった。ダムも、川も、森林も、畑も、人間の日々の営みも、雨が降るという大前提によって成り立っていることが人々の間に理解されようとし始めていた。

マスコミは、政策や、構造不況や、地価の下落や、就職難や、食管法や、住専問題や、沖縄米軍基地問題や、原発や、新興宗教や、教育や、芸能人のゴシップや、皇族の近況やの問題を打ち捨てて、水飢饉のニュースを大々的に先を争って取り上げた。今回の失態は省庁間の縦割り行政の生んだ人災であると断ずるテレビ局の報道もあった。だが、江戸時代から続く水争いや治水の歴史をおさらいしてみたり政府の非をあげつらってみたところで、人々の渇きを癒す役には立たなかった。

近代の歴史をいくらひもといて見ても、全国規模での水飢饉という前代未聞の事件は記録されていなかった。それもそのはずで、最も最近の死者を出すほどの規模の干ばつといえば一七七〇年の記録が残っているくらいであり、今世紀に入ってからの干ばつと呼べるほどの事件は、一九三九年と一九七八年が記録に残されているのみである。つまり、その年、一九九四年の事件は、二百年に一度起こるかどうかという長いサイクルを持つ自然の営みのなせる業であり、人一人のサイクルを超えて立ち現れてきた現象であることを意味していた。

その年の夏、全国の気象台は軒並み最高気温摂氏四十度以上を記録した。これは、気象台が初めて設置された一八七二年以降の最高気温であり、平均気温もまた最高を記録したのだった。

熱帯夜と真夏日が続いていることが連日報道されたが、干ばつという言葉は報道の中で使われず、水不足という言葉が使われていた。その理由は、米の成育に当面は影響を及ぼさないだろうという食料庁の見解を反映してのことだった。干ばつという言葉は、米の成育が妨げられたときにのみ使用されるようだった。その年の殆どの県の作況指数は一〇〇を超えており、豊作であることが予想されたため、干ばつという言葉を使用することが控えられたようだった。

前年、一九九三年は冷害の影響で米が不作であったために、年が明けて緊急輸入が行われると、一九七三年のオイルショック時のトイレットペーパー買いだめ騒ぎのような、米買いだめ騒動が起こった。食料庁はこれを反省して、早めに豊作宣言を行っていたのだったが、この豊作宣言も、一定の雨量があることを前提としていたことはいうまでもなかった。雨が降らなければ、成育した稲が立ち枯れることは予測に入れておくべきではあったが、前年の不作予想に端を発した失態を挽回するためにも、その年は豊作であることが必要であったことから、このような発表につながったようだった。

そして、新米が出回り始める頃になってもその年の作柄は豊作であるという評価は据え置かれた。前年にすでに契約していた海外からの輸入米を処理する必要もあったし、海外の米生産農家は前年以上の作付けを行っており、輸入枠の拡大を日本政府に対して要求していたからだった。その年の事態は国内の米生産農家にも影響を与え、その年までの減反政策は見直しを求められると共に一九四二年以来放置されてきた食管法の廃止が検討されることになった。

この頃になると南方には低気圧が現れ始めたが、太平洋側には依然として高気圧が居座り続け、台風は行く手を阻まれ九州南方から西に進路を取り、期待された降雨は全くもたらされることはなかった。

全国の水道は給水を停止し、地方自治体は輸入飲料水の割当て配給制を実施することになった。秋晴れのカラリとした天気が続き、日本はまるでカリフォルニアの空のように晴れ渡っていたが、その空の下に暮らす人々は陰鬱な気分に包まれていた。

新米が出回り始めたにもかかわらず、水不足のために炊飯がままならないため、結果として米食家庭は激減し、米価は安値安定し、政府の米政策は前年に引き続いてその年も失態を重ねたにもかかわらず、それが表面化することもなかった。

アメリカ政府は、日本に対する輸出食料の中心を米から小麦に切り換え、一九四五年以来の政策である日本の主要食料のパン食への転換を、国際化という、日本が標榜する政策を楯にとって推進するという方向転換をおこなった。

マスコミは、二百年前の歴史を調べはじめ、当時の干ばつは十年近く続いたことを突き止めた。そして、さらに、翌年もまた同じような状態が待っているのではないかと、いたずらに国民の危機感をあおり、政府の危機管理の杜撰さを批判した。

飲料水も工業用水も緊急輸入体制が継続されていた。海水淡水化装置の設置工事は急ピッチで進められ、年明けには各県で第一号機が始動する目処がたった。この動きと連動して、地下水に対する関心が高まり、湾岸戦争で職を失ったアメリカの油田掘削チームが招聘され、温泉と地下水の掘削に奔走することになった。市町村は温泉経営と飲料水の販売で潤ったが都市機能は麻痺し始めていた。企業は貿易黒字を工業用水と交換せざるを得なくなった。水を巡るトラブルは後を絶たず、すでに数十人の男女が水絡みの事件で死亡していた。水と安全は只という日本の神話は、たった一夏で終わりを告げたのだった。