アシッド・レイン
---- 第一章 (2)----

芦沢がドアを開けて入っていくと、部屋の中に立ち込めた煙草の煙と肌に粘りつくような空気が顔を撫で、一瞬足を止めた芦沢に全員の視線が刺さった。

会議はすでに中盤に差しかかっている時刻だ。水不足に伴う、番組の緊急編成会議をしているはずなのだが、このところの、渇水によってもたらされた事件続きで活気づく報道部の勢いに呑まれっぱなしの制作部の会議が、盛り上がるはずがないことは芦沢には先刻承知の上での大遅刻だった。

松下制作部長以下、森副部長、林課長、CFプロダクションの山田社長、カメラマンの斎藤、アシスタントの西山、クライアントの木下課長、広告代理店の担当村田と全員が勢揃いして芦沢の方を睨んでいる。林課長が口火を切った。

「さて、芦沢君が練りに練ったアイデアを持って登場しましたので、まずは彼のプロデューサーとしてのプランを聞いてみたいと思いますが、皆さんいかがでしょう」

「ええ、構いませんが、その前に皆さんで話し合った結果からお聞かせ願えませんかね」

芦沢の答にクライアントの木下がムッとするのを見て広告代理店の村田が取りなすのを横目に、番組を実質的に制作してきたプロダクションの山田社長が要点をまとめる。

「この渇水で、川、湖、池は全滅です。これまではトータルにカバーしてきた訳ですが、とにかく、内水面はどうしようもない訳です。で、当然、海ということになる訳ですが、このような時期ですから、沿岸漁業の操業を妨げないことを考慮しませんと」

「うちは海用のタックルばかりじゃないんでね」

クライアントの木下が口を挟む。

「そうですねぇ、今流されているコマーシャルは淡水がメインですから、海水用は新商品で番組のスタートに合わせて撮影し直しということで」

「そんな予算ないよ、君」

「今度のチタンの分、あれなんかいいコマーシャルが作れそうなんですがねぇ」

この番組は、一社独占スポンサーで成り立っているため、企画がまとまりやすい反面、クライアントの横暴に泣くこともある。広告代理店の担当は、何とか新企画のコマーシャルを制作したいところなのだが、クライアントのガードは固い。林課長がもう一度芦沢の方に視線を送る。その視線に気づいた森副部長が口を開く。

「淡水も海水もカバーするという基本方針は崩さずに、文化としての側面をやはり打ち出す必要があるわけです。これはこの番組が十五年間という長きに渡って続いてきたことの根本でもあるわけでして・・・」

「ところで、この番組続けるつもりなんですか?」

芦沢が突然、木下に向かって訊ねた。

「失礼だねぇ、君ぃ。この番組はスタート時からの我が社の単独スポンサーでやってきてるんだ。今や同じような番組の中じゃ老舗中の老舗なんだ。やめるわけないだろ」

「でも、その十五年間の間にゃ相当すったもんだがあったじゃないですか」

「それがあったからこそ、今のような長寿番組に育ったってことだろ」

「木下さん、すみません。芦沢君、そんな話はもういいから、次期シーズンのテーマと次の1クールの具体的な企画の話をしてくれたまえ」

林課長が話を元に戻す。

芦沢が全員の顔を眺めながら話し始める。

「つまり、皆さんのお考えじゃ海ばっかりでやろうって訳だ。だが、淡水用のタックルも海水用のタックルもある。で、淡水も海水もって言ったってこの国じゃ、飲み水の確保がやっと。おまけに、こんな時期に文化だが何だか知らないが、魚釣りなんかやってる場合じゃねぇだろってのが、ま、俺の見解で。ところがだ、心強いお言葉を賜った以上、燃えちまうのがプロデューサーの性って訳でして。つまり、要約すれば、淡水も海水もOKって奴を狙うしかねぇってのが俺の結論て訳だ。で、つまり、鮭」

「鮭って、海の魚じゃないのかね」

森副部長が無知をひけらかす。

「鮭は淡水魚の王様って言われてる訳だが、確かに、海を回遊している期間の方が長い訳で、二、三年は北洋を回遊してる。でも、産卵、誕生は母なる川でおこなわれる訳で、しかも受精、産卵と同時に死んじまうというところが、有終の美というか、桜のような散り方というか、武士道に通ずるような凄惨で壮絶な死に方にロマンを感じるっちゅう訳だ」

「鮭は遊漁が禁止されてるよな、芦沢さん。それで今まで取り上げなかったんじゃ」

カメラマンの斎藤が怪訝そうな視線を投げてよこす。芦沢はその視線を無視して、木下の顔を見て話し続ける。

「そのとおり。鮭は遊漁禁止の魚だ。ところがだ、サクラマスに関してはOKなんだな、これが。サクラマスはヤマメが大きくなった魚なんだが、鮭のように外洋を回遊してちょうど春に生まれた川に帰ってくる訳だ。これを河口、つまり海用タックルで、そして川で川用タックルで狙うっちゅうのはどうでしょうねぇ」

木下の興味を持ったらしい顔に向かって芦沢が続ける。

「ここまでは建前。で、鮭も一緒に上ってくる。いや、上ってくるようにする訳だ」

「上ってくるようにするとは、どういうことかね」

「木下さん、皆さんもご存知のとおり、日本中の川は渇水で、水が流れてる川は一本もねぇ。今から大雨を当てにしてたんじゃ話にも何にもなりゃしねぇ。で、まずは北洋のロケから始めることにする。で、鮭漁の歴史とか文化とか、ロシアとの軋轢の歴史とかで四月の一ヵ月はつなぐ。五月、六月になりゃサクラマスが北海道沿岸から、青森沖、三陸沖に南下してきて川を上る。そして、三ヵ月後にはいろんな種類の鮭が入れ食い状態になる」

「だから、上る川がない訳だろう、君」

「いいですか、今、日本には鮭が上ろうとしても上れる川は何処にもねぇんだ。ねぇとなったら鮭はどうすると思います、木下さん」

「よその国に行くのか」

「そのとおり、探す訳だよ。自分の生まれた川でなくても、とにかく産卵できる川をね。日本の近年の鮭の豊漁は、ロシアの汚染された川のせいなんだ。ロシアで生まれた鮭が日本の川で産卵してたんだよ、今までは。ところがだ、去年からは話が逆になった。ロシア沿岸からカムチャツカにかけては大雨だ。つまり、日本で生まれた鮭がロシアの川に向かった訳だ。汚染されていても、水がないよりはましってことですかね。これが続くとどうなると思います」

「日本の川には戻ってこなくなるのか」

「そう、回遊ルートが変わっちまうってことだ。こうなっちまったんじゃ、日本の近海鮭漁は大打撃だ。それに、ただでさえかしましい北洋の鮭漁は、ますますの協力金をロシアからふんだくられることになる訳だ」

「で、君は、ロシアにロケに行くと言うのかね」

「木下さん、そんな番組誰が見ますか。日本の川に上って日本の川で潔く死んでこそ、日本人の心情に迫ることができるんじゃねぇですか。だから、死に場所を用意してやる」

「つまり、君は」

「つまり、川を造る訳だ」

「何を馬鹿なことを言ってるんだ、芦沢君。日本中の川には水は一滴もない。おまけに飲料水は輸入に頼ってるんだよ」

「森副部長そこですよ、その飲料水で川を造るんですよ。全国に呼びかけて、いや、世界中に呼びかけて貴重な水を持ち寄ってもらうってのはどうです。水がなくて困ってるのは人間だけじゃないんだってことと、鮭に戻ってきてほしいっていう日本人の土着的心情的な部分を刺激してやりゃ、一大キャンペーンにだってなるはずだ。ズバリ、「コールバック・サーモン・キャンペーン」ってのはどうです。「ひとしずくの愛」なんてキャッチコピーをくっつけてもいいかな。親会社の新聞でもガンガンやってもらう。おまけに、文部省に建設省に厚生省に通産省に農林水産省の後援つきで、メインスポンサーなんてのはどうです。え、木下さん」

木下の頬が少し弛んだのを横目に芦沢は続ける。

「水は勿論、海水淡水化装置で造るつもりだ。そこに全国の小学生が運んできたコップ一杯の水を注ぐセレモニーをやる。そこへ第一陣の鮭が上ってくる。場所は、できれば日本海側がいい。ロシアに行かずに日本へ戻ったという印象が与えやすい。そしてもう一つ、クリーンイメージを喉から手が出る程ほしがっているスポンサー。ここから金を取る。原発ってのはどうです。原発銀座の福井なんか狙い目だ。川は九頭竜川なんかどうだろう。この川はサクラマスのメッカだった訳だし、仕掛けがやりやすいんじゃねぇかな」