ゲイトのオープンは七月十五日に決定した。一ヵ月の予定が半月になった理由は単純だった。水無山までのパイプラインに加え、水無川の中間地点までのパイプラインの増設が行われ、二系統のパイプラインの敷設と、海水淡水化装置の増設がおこなわれたからだった。流量調節のための設計という名目で、西山の兄が有り余る予算を消化するために考えだした方策だったのだが、これが思わぬところで役に立ったことになる。
セレモニーに関連する行事スケジュールが発表されると、各テレビ局には毎日電話とファクスを通じて膨大な数の応募が寄せられ始めた。すでに交通網の寸断は完全な状態にまで進行していた。地方都市は孤立し、情報源としてはテレビとラジオに頼るしかなかったために、どの局でも時間帯にかかわらず高視聴率をあげていた。
都市部の沈下はますます進行し、それは公共施設にも及び、沈下してしまった自宅の救援を訴えようとしても、消防署にも警察にも連絡が取れなくなってしまっていた。都市の機能だけでなく、行政システムそのものが全く機能しなくなりつつあったが、その代わりに、町内会の活動が活発化し、小さな単位ではあるが有効な動きが見られ始めた。
年明けから半年、尻上がりの二次曲線に乗って一気に川のオープンにまで漕ぎつける目処がたった訳だが、それは、渇水の被害の進展と軌を一にしていた。もし、被害が緩和されるような事態が起こっていたなら、この企画自体が潰れていたかも知れないのだ。そう思うと他人の不幸を食い物にして成り立っているような企画だともいえるが、芦沢にも牲にしたものがなかった訳ではなかった。
その中でもキャンディとの別れは最大の代償だった。元はと言えばアウトドア作家荒木を番組の狂言回しとして担ぎだすためにキャンディにつないで貰ったのだが、今では大物作家や大物タレントが向こうから手を挙げてくるようになり、出演者選びはより取り見取りの状態になっていた。最初からこうなると分かっていれば、荒木などには固執しなかったのだが、それは半年前には全く読めなかったのだから仕方がない。だが、それが、キャンディの店が潰れなければならない理由には到底ならなかった。
荒木を降ろしたのがちょうど1クール分の撮影を一ヵ月分残した四月末。撮影の進行に伴い、カヌーに乗った荒木が北海道沖から南下し新潟沖辺りにまで下ってきた頃だった。斎藤からの連絡で荒木がギャラのアップを要求していることが分かった。人気番組になっていることを察知しての荒木らしいリアクションだった。おとなしくしていれば、最後までレギュラーの一人として使うつもりにしていたのだが、すでにこの頃には芦沢の元には荒木に取って代わろうとする作家や俳優からの申し出が殺到していたことが荒木には災いした。まさか「じゃあ結構です」という言葉を芦沢から聞こうとは思わなかったはずだ。
だが、この後荒木がキャンディに嫌がらせを始めるというのは芦沢には読めなかった。始めは店に入りびたる程度だった。その内にキャンディに逆恨みの情を募らせ、酔った挙げ句にキャンディのマンションまで押しかけ殺害に及んだのだった。他のニューハーフとは違い、大事に残してあったキャンディの性器は無残にも切り取られ、美しい顔は切り刻まれ、荒木の恨みが半端でなかったことを思い知らされたときには全てが遅かった。
それまでに何度もキャンディから連絡を貰っていたのだが、多忙さにかこつけては約束をすっぽかしていた。「あたし、荒木に殺されるかも」-そう言って電話がかかってきたのを、つい先日のことのように思い出す。俺は荒木と一緒にキャンディを棄ててしまったのかも知れない、と芦沢は葬式にも出席できなくなった身分になっていることを悔やみながらも一向に湧いてくる気配のない罪の意識を探しあぐねた。しかしそれもほんの二、三日のことで、過密スケジュールが芦沢の記憶にそれを留めておくことを許さなかった。
六月二十九日朝。放水セレモニーの前日、芦沢は新しく建設された町立ホテルの宴会場にいた。会場には首相以下後援省庁の大臣、各国の来賓、両村の村長、両村民の全員、各地方自治体の首長、近畿電力の役員が参列していた。そして、クライアントの木下と会社の役員、プロダクションの山田社長、カメラマンの斎藤、アシスタントの西山、広告代理店の村田と役員、芦沢のTV局の松下制作部長、森副部長、林課長と役員、西山の兄と母親が晴れがましい顔を揃えている。新町名、新河川名の応募者と全国からペットボトルや牛乳ビンに水を入れて運んできた全国の小学生たちも列席していた。会場に入りきれなかった人たちはホテルの庭の特設会場に集まっていた。
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