アシッド・レイン
---- 第二章 (3)----

バス停から西山の家までは歩きで行った。

芦沢は、最初のロケーションハンティングは、どうしても車でしか行けない場所を除いて、必ず電車・バスを使うようにしている。
最初に触れる情報からその土地柄を知るためには、車で乗りつけたのでは分からないことが沢山あるし、今回のようにその土地に早く溶け込む必要があるときには、同じ高さで喋れるように気をつかう必要があることを経験から知っていた。

バス停からは直ぐで、家は西山の家一軒だけだと聞いていたが、大きなバッグの中身の重さは地道を歩く足にはこたえた。

一時間も歩いた頃にやっと黒い屋根瓦の家が見えてきた。

広い玄関を入り声を掛けたが奥の暗い部屋には人の気配がなかった。
芦沢は荷物を上がりがまちに置き、へとへとになって口も利けない木下を残して庭に回った。農家の庭といえば大抵は鶏がいたり犬が寝そべっていたり猫が縁側にいたりするものだが、生き物の気配がない。
生け垣の竹はくすんで腐りかけ草花は一本も植わっていない。
軒先には種にするらしいトウモロコシが吊り下がっていて辛うじて農家の風情を演出してはいるが、洗濯物も干してないところを見ると不在なのか。電話を入れてあったはずなのだが、と玄関の方に戻ろうとしたとき上ってきた道の方から車の音がした。この家には似つかわしくない赤いセダンだ。
運転席のドアが開いて、パンチパーマの痩せぎすで色の黒い男が出てきた。

「今朝倒れたんですよ。電話をもらって直ぐ後のことらしいです。わし、会社休んで病院に連れていってきたとこです。お袋がついてますんで、戻ってきたんですが」 「で、ご容体はどうなんです」

「軽い脳溢血らしいです。取り敢えず安静にしといたらいいらしいですけど。水、水いうてましたが、山に水が湧くとか。そんなこと」

「ええ、そのお話で来たんですけど、とんだ事で。あ、これはつまらないものですが」

芦沢が、バッグからエヴィアンのペットボトルを三本取り出して応接テーブルの上に置いた。都会のウォーター・ファウンティンでは今一番の人気ブランドだ。

「ああ、これはどうも。エヴィアンですか。えらい時代ですなあ」

「安静にしてなきゃってことは、お話は無理でしょうね」

「無理ですなあ。ま、今はお袋がついてますんで、わしが話は聞いておきますが」

「西山君の方からは何かお聞きになってますか」

「いや、詳しくは何も聞いとりません。でも、工事ならうちでやらしてください。うち、ここらを仕切ってますんで」

「あ、土木関係ですか、お仕事は」

「ええ、家の普請から原発までやっとりますんで」

「はあ、そうですか。ところで、この辺りは水、どうなさってるんですか」

「もらい水ですわ。ここらは昔から水にゃ苦しめられてまして。隣村までは水があってもここらは年中水不足で、裏山は水無山いう名前がついとるくらいでして」

「水は隣村から引いてるんですか」

「いいえ、とんでもない。九頭竜川から引いてます。隣村の水無川から引けば近いんですが、もう、四百年も五百年も昔にそんな話は立ち消えになったまんまで」

「水無山のてっぺんから水を流して、その隣村の水無川につなぎたいんですが。そして、日本海にまで流す。川を甦らせるんです。そしてその川を鮭が上る。鮭が水無山まで上ってくるんです。川を甦らせるためのキャンペーンは大々的にわが社と親会社の新聞社・雑誌社を使ってやります」

「水は何処から引いてくるつもりで」

「隣村から引いてきます」

芦沢がそう言った途端、西山の兄の顔色が変わった。唇が紫色になっている。

「馬鹿なことを言わんでください。なんでこの村が九頭竜川からパイプラインを引いてると思うてるんですか。あいつらから水を恵んでもらいとうないからやないですか」

「恵んでやるっていうことになるんじゃないですか。水無山のてっぺんから、隣村に水を流す訳ですから」

「水の恨みこそあれ、水を恵んでやるような情けをかけるようなことができる訳ないでしょうが!」

西山の兄は突然いきり立った。
弟の無表情さに比べると、感情をあらわにするタイプらしく、父親の血が兄の方に強く流れているようだった。隣で黙って座っていた木下が取りなすような口を利く。

「いや、いや、ですから川の水をきっかけにしてですねぇ、その、二つの村が五百年振りに仲直りすることができればですねぇ・・・」

「あんたたちは何も知らん。昔は、この村の娘はみんな隣村に嫁に行ってたんです。なぜだと思います。ちょっとでも水を工面してもろうて、親たちに楽をさせよう思うてです。そんなことまでして隣村の水をもろうて生きてきたんです、この村は。この村にゃ手桶後家いう言葉があるんです。隣村の奴ら、手桶一杯の水を持ってきてこの村の後家を口説いてたいう話です。それくらいこの村にとったら水は値打ちがあったいうことです。そんな話がなくなったのはほんの二十年ほど前に、九頭竜川から水を引くパイプラインができてからのことです。そのときにゃ、村人がみんな集まって手を取りおうて泣いたそうです」

芦沢も木下も説得のきっかけを失った。だが、芦沢の頭にはゴーサインが灯った。
理由は分からないが、問題があった方が解決の方法があることは確かだ。
問題がはっきりせずにいる間は解決の糸口を見つけることは難しい。数百年間対立している村同士-水利行政上からもこの村が九頭竜川から延々数十キロに及ぶパイプラインで取水しているのは不自然な筈だ。
地図で見る限り隣村を流れる水無川から取水するのが自然なのだが、怨念の歴史がそれを拒否したことによって、気の遠くなるほど長いパイプラインの敷設につながったのだろう。
その歴史をひっくり返す。
水を恵んでもらうことで虐げられてきた村が逆に水を恵む立場に立つのだ。
そして、怨念の歴史に終止符を打つ。 キャンペーンがもう一つ盛り上がることは間違いない。釣り番組の伏線としては申し分ない。「いいじゃないか!」と芦沢は心の中で叫んでいたが、顔には出さずにその場を辞すことにした。

西山の家を出た芦沢と木下は一旦町まで戻ると、隣村行きのバスに乗った。水無山を越えれば隣村なのだが、そんな便はもとよりある筈もなかった。

隣村の村長は酒肴の用意をして芦沢たちを待っていた。
西山の兄に比べれば、金のニオイに敏感な男だと言える。企画書を見せ、説明をすると二つ返事で承諾した。
もっとも、水無川に水が流れるということに反対する理由などある筈もなかった。

「それで、まさかうちの村に原発がやってくるようなことはないんでしょうな」

村長は最後に芦沢を覗き込むようにして確認するとヒッヒッヒッと笑った。