三月に入ると全国の河川は完全に涸れ、航空写真でとらえられた山岳地帯は谷筋に刻まれた幾筋もの溝を曝していた。水の流れの途絶えた川底の泥には亀裂が入り、タイル貼りの歩道のように見える。護岸工事で固められた土手にはひび割れが入り、コンクリートはいたるところで崩れ落ち、川床には砂煙が舞っていた。
水を失った川を前にして、内水面漁協はなす術もなかった。収入の殆どを鮎の入漁料に頼っていたにもかかわらず、前年からの渇水で川はすべて川床を晒し、入漁料はまったく入らず、当然のことながら何処の漁協も水産試験場も稚魚の生産を放棄していた。
毎年、雪解け水で薄緑色をして流れる川には陽炎が立ち込め、山の景色を揺らめかせるという、不思議な風景が全国各地で観察された。日本海側では、早くもフェーン現象がもたらす山火事が頻発し、山に刻まれた溝となった川筋を伝って熱風と火の粉とが村里から中流域の町にまで吹きつけた。水のなくなった川床で遊んでいた小さな子供たちが、この熱風によって死亡するという事故が相次いで起こった。文部省は、全国の小中学校の体育の授業の中止を指示し、春の選抜高校野球の実施も見送られた。さらに、厚生省は、発汗を助長するような行為を慎むようマスコミを通じて国民に呼びかけた。水不足が報じられてから、すでに一年が経過しようとしていた。
原因の究明はもはや急務ではなく、これらの現象に対応することだった。農林水産省がまず矢面に立たされることになった。前年の豊作予想が裏切られただけでなく、その年の田植えは絶望的なことは目に見えていたからだ。減反政策の緩和も何の意味も持たなくなっていた。間違いなく、その年の米は全面輸入に頼らざるをえないことは明白になりつつあった。農産物は急激な値上がりを続けていたが、すでに前年の四倍近くの値段に高騰していた。
沿岸漁業にも影響が出始めていた。川から流入する栄養分が長期に渡って欠如したことと、海水温度と淡水化装置による海水塩分の上昇によって魚が深場に移動したために、漁獲量は大幅に低下していた。養殖業も全滅だった。林業は頻発する山火事によってなす術もなく放置され、下刈りの必要もない程に焼きつくされた。林業従事者の主な業務は、延焼を防ぐために自衛隊と一緒に土嚢を積み上げたり、山裾の灌木を伐採することに終始した。
河川が涸れたにもかかわらず全国の水利組合の大会が開かれ、伏流水と地下水の利用基準が検討されることになった。このきっかけとなったのは、海岸や河川や湖沼に隣接した住宅地での地盤沈下が相次いだことだった。原因ははっきりしていた。見境のない地下水の汲み上げによって生ずる必然の帰結だった。
この現象は都市部でも発生することが発表された。突然に発表されたビルの沈下予測に人々は戸惑い、やがて地質検査の徹底に伴って恐怖に変わっていった。毎日のように沈下予定ビルとその地域の地下水脈の図が新聞に掲載され、テレビではコンピュータグラフィクスによって、どのように沈下するかのシミュレーション映像までが流されるようになっていた。
道路も、電車軌道も、空港も、地下鉄も、港湾もこの対象外ではなかった。都市は歪み始めていた。地下水を汲み上げ尽くし、農作物は育たず、食料と飲料水の輸送も道路の陥没でままならなくなり始めていた。前年には、給水車に群がる住民に対して「水難民」などと呼んでいたマスコミも、事態が緊迫したものになってくると沈黙し、事実のみを伝える報道に変わっていった。さらに、その事実も積み重なってくると恐怖感をいたずらに煽ることにつながるとして、政府はついに報道管制を敷いた。
しかし、それに取って代わるように、「コールバック・サーモン・キャンペーン」だけは大々的にあらゆるメディアで報じられるようになった。政府としては、恐怖から国民の目をそらせることが必要になるほど、事態は切迫したものになっていた。
いくらコンタクトをとってもなしのつぶてだった建設省から後援決定の連絡が入ると、あれよあれよという間に農水省、文部省、通産省、厚生省、自治省、おまけにNHKまでもが協賛の名乗りを上げた。勿論、民放各社はこれにならった。特に、農水省からは、サーモン・フィッシングのお墨付きが発行されるという、異例の取り計らいが発表された。すでに、テレビの番組はどのチャンネルを回しても、同じ映像が映るようになっていた。
キャンペーン本部には日本だけでなく、世界中から励ましの手紙が寄せられ、インターネット上でも活発な意見交換が行われ、芦沢が作ったホームページには二ヵ月の間に一千万回を超えるアクセスが記録されていた。
潤沢な資金は工期を早めることになり、五月には殆ど完成するところまでこぎ着けていた。西山の兄は、今や時の人として毎日のようにテレビ画面に登場しては、完成時のロマンあふれる情景を語ってみせた。二つの村の話は話題となり、世界平和に貢献する話として世界中のマスコミに取り上げられ、合併によって新しく誕生する町の名前もすでに百万通を超える応募が集まっていた。二人の村長の顔もすでに馴染みの顔になっていた。
斎藤のカメラワークは冴えを見せ、放送時間が延長されたこともあって、殆ど実況中継のような番組づくりをせまられた。斎藤は現地に張りついたままの生活を余儀なくされてはいたが、彼もまた栄誉あるカメラマンとして毎日のように番組に登場するようになっていた。すでに番組は国民全部のための唯一の番組になり、キャンペーンは国家規模でのキャンペーンになりつつあった。
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